『鋼の錬金術師』で心に刺さった名言・その1【グリード編】

この冬、実写版の映画が公開になるということで、久々に通しで『鋼の錬金術師』を視聴しました。

『鋼の錬金術師』は、2003年と2009年の2作品あるのですが、現在、U-NEXTで見放題で配信されているのは、2009年の『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』です。

毎日ご飯の時などに1~2話づつ視聴し、全部で64話もありました。長くて疲れたぁ~~

でも、やっぱり面白かったし、見ごたえありました。

ストーリも登場人物の描き方も、全てが丁寧なアニメで、最初から最終回まで、こんなにきちんとよく考えて作られた完成度の高いアニメ(もちろん原作漫画も)も、珍しいんじゃないかと個人的に思います。

この長さの壮大な物語を、現在公開中の実写の劇場版は、2時間足らずの映画で、どこまで再現できるのか・・・

まぁそれはいいとして、以前見た時はそれほど心に残らなかったけど、今回はなぜか強烈に私の心に響いた名言を今日は取り上げたいと思います。

グリードのセリフは名言の宝庫

『鋼の錬金術師』という作品は、子供のアニメだと思っていたら、この世の本質をついてくるようなセリフが出て来たりして、ドキッとさせられることが多々ありました。

特にグリードは、あまり褒められた人生(?)を送ってこなかった人造人間(ホムンクルス)ですが、なぜか私は、このアニメの中で一番好きなキャラクターでした。

そのグリードが、『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』46話の9分35秒頃、エドとの会話の中で発したセリフがあります。

「死んだ奴に会いたいも、金が欲しいも、女が欲しいも、世界を守りたいも、全部欲する心。すなわち、願いだ。
俺に言わせりゃ、欲にいいも悪いもねえ。欲っつうもんに偉そうに格付けするから、人間はややこしいんだよ。」

「欲望は欲望。主観でいい悪いをジャッキするから、人の人生はややこしくなる」っていう意味だと思うんですけど、ほんと、その通りだと思いました。

人は、人間社会の暗黙のルールや、生まれ育った家庭で教えられた常識や価値観をベースに、目の前で起こっている現象にあれこれ意味づけして、判断しながら生きていきます。

今年日本では『忖度(そんたく)』なんて言葉が大流行しましたが、日本人って特にその傾向が強いように感じます。

人それぞれ考え方に癖(決まったパターン)があって、しかもその考え方の癖(パターン)は人それぞれ違うのに、お互いが「主観で」判断して、お互いそれぞれの感情の波にもまれてしまうのが、人間界ならではの問題なんだろうと思うんです。

人間じゃない存在のグリードから言わせると、人間らしく生きていくために必要な、自分の中にある判断基準が、必要以上に自分を縛り苦しめるとか、意味わかんね~、ってことなんでしょうか。

言いたいことは分かるけど、イマイチ意味わかんね~

うちの子には、「目の前の出来事について色々考えてるのは自分自身だってこと、グリードは言いたいんだよ」と説明すると、「そんなん当たり前やん!言いたいことは分かるけど、イマイチ意味わかんね~」と目を丸くしていました。

子供は「じゃあさ、人を殺すのは、悪だと思うから悪で、実は悪じゃないの?」というのですが、当然、人を殺すのは人間界のルールでは「悪」です。

でも、グリードが言いたいのは、そもそも「善か悪か、正か誤か」考えてるのは、自分自身だってことに気づきなさいね、ってことなんだろうと思うんです。

決して、「悪いことを悪いと思っちゃだめだ」と言っている訳じゃなくて、「人殺しや泥棒は悪じゃないの?」ってことを言うことが、既に「人間」ならではのパターンなんだということなんです。

自分自身が「善」や「悪」かを判断しているから「善」や「悪」がそこに在るのであって、そこに「善」や「悪」が元々あったんじゃないんだよ、と。

「人が、人を殺した」という場面があったら、それは「人が、人を殺した」という「事実」なのであって、そこに「それは悪だ!」とか「いや~殺したくなるのも分かるわ~」とか、「場面に応じて色々意味づけして考える」ことは、別個の事だよ、ということなんだろう、と。

多分、グリードが言いたいのは、「人間は、ある出来事が起こってから、その出来事をあれこれ判断するまでがセットになっているけど、それぞれ別個のものだよ」ってところであって、決して判断してはいけない、ってことではないんですよね。

うちの子に限らず、「人」っていうのは、自分の抱いた感情が自分の世界(人生)を作っていくということに、意識していないことが多々あります。

私も、普段生きている時は、どうしても「目の前で起こる事と、それを見て考えること」までが一セットになっていたりします。

それは人類に共通する長年のテーマでもあり、グリードのセリフと多少ニュアンスはちがいますが、思想家や、宗教家たちも、言葉が違えど同じことを言っています。

例えば、ニーチェはかつて「事実は存在せず、ただ解釈がある」と言いましたが、グリードのセリフを端的にまとめると、まさに、このニーチェの言葉になると思います。

目の前にあるのはただの出来事で、その出来事について自分がどう解釈するかで、その先に幾通りもの人生のストーリーが用意されているということに、時々でも自覚できたら、物事には、いろいろな視点があるものだと、少しでも冷静になれるというものです。(実際はなかなか難しいんですけどねwww)

善が悪になる瞬間の、よい実例を思いつきました。

うちの子はそれでも、「いや!それは分かるんだけど、なんかスカッと納得しないんだよな~」というので、さらに身近な実例に置き換えてみました。

良い・悪いや、正しい・間違いの、判断は人間がその都度しているんだよ、という実例については、メールと電話のマナーに置き換えて説明することができると思います。

ひと昔前は、大切な要件はメールやファックスじゃなくて電話で、というのが常識で、メールで済ますのは「悪」とか「失礼」だと言われていました。

が、近頃の若い人は、メールで済ますのが「善」で、わざわざ電話をかけて相手に時間を割いてもらう方が「悪」だと考える人が増えてきたんだそうです。

うちの子も、友達の間でのコミュニケーションが、ラインという文字でのコミュニケーションになることが多く、「確実に伝えたいことは電話でね」というと、「はぁ?」って顔をされます(汗)

「電話なんかかかってきたら、なにかあったのかってビックリするやん!」というのですが、いや、何かあるから電話するんだよっ(爆☆彡)と、BBAなんかは思ってしまうのです。

というわけで・・・

近年、時代の流れがどんどん早くなってきて、これからも、善悪の常識が覆る瞬間や、不可能が可能になる瞬間に、立ち会う機会が、どんどん増えてくるでしょう。

そんな中でも、目の前で起こる出来事に意味づけして、人生という物語を進行させているのは、他でもない自分自身なのだと、時々意識するだけで、人生の新たな選択肢や可能性が見えてくるような気がします。

グリードは、感情に揺れ動く人間をバカにして斜に構えて生きてきましたが、感情があるからこそ生まれる、人間同士の「関わり」や「繋がり」や「絆」を、こっそり羨ましがっていたりもしていました。

悪役でしたが、人間という生き物を客観的かつ冷静に見つめてきたグリードに、とても大切なことを教えてもらえた気がしました。

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